修復の都 フィレンツェ
1966年11月のフィレンツェ大洪水は、<文化財の悲劇>として世界中に知られている出来事です。しかし、皮肉なことにこの惨劇によってフィレンツェは、世界でも比類のない一つの大修復工房へと変貌したのです。世界の名だたる美術館から派遣された最高の修復技術者たちが、フィレンツェの専門家や美術史家とともに、質、規模いずれをとってもかつてないレベルのチームを作りあげました。そして、そこでは、最新の修復に関する手法と基本的テクノロジーが駆使されるようになりました。このテクノロジー革命は、いまも尚、フィレンツェの修復施設や70年代に生まれた修復学校のなかに蓄えられ、生き続けています。このときに得た大きな知識の資産のおかげで、フィレンツェはまさに<修復の都>という呼称にふさわしい町となったのです。
パラッツォ・スピネッリ芸術修復学院 創立
このようにパラッツオ・スピネッリ芸術修復学院は、1977年、これら瀕死の文化遺産を修復する技術者を養成するために創立されました。発足時には、古い木藝品の修復科、絵画修復科、陶器と石材の修復科の3コースがまず最初に開講され、次いで1982年に書籍・素描・版画修復科、1985年に織物、タペストリー、絨毯の修復科、1998年にフレスコ画および壁画修復科が各々開講されました。現在では、これら修復学部のほかにファイン・アート学部、アンティーク・トレード学部、文化財保存学部が設置されています。
修復科では、イタリアはもちろんのこと、スペイン・フランス・ギリシャ・アメリカ合衆国、そして日本を含む世界48カ国より学生を迎え、3,000人以上の卒業生が全世界で活躍しています。
(旧)ランビエンテ・修復芸術学院 創立
ランビエンテ修復芸術学院の母体ランビエンテ美術研究所は、1995年にイタリア国立美術アカデミー・フィレンツェ校(Accademia di Belle Arti di Firenze)卒のアーティストたちを中心としたチームによって発足しました。
翌96年には、パラッツオ・スピネッリ芸術修復学院認可校となり、1999年から新たに正式な東京校<ランビエンテ修復芸術学院>として出発、絵画修復科が開講しました。2001年4月からは、書籍・素描・版画修復科(現・紙作品修復科)がスタート。2011年の卒業生を最後に閉科致しました。2015年ランビエンテは、パラッツオ・スピネッリ芸術修復学院の日本事務局として改に出発致しました。