イタリアには、国立中央図書館が二つあります。そのうちの一つ、フィレンツェ国立中央図書館の建物は、20世紀初め、騎兵隊の駐屯する兵舎だった建物を全面的に改造し建造されたものです(1911-1935年完成)。フィレンツェの歴史地区にある建物としては比較的新しい建物で、町の中心を流れるアルノ川のほとりにあります。下の写真、図書館の後ろに立つ建物(右手に鐘楼、左手にファサードが見えます)はサンタクローチェ教会で、図書館の真下は土手になっていて、その下を川が流れています。
アルノ川にのぞむフィレンツェ国立中央図書館正面玄関
ウフィッツィ美術館裏にあった旧い図書館は、イタリア国内で出版される本をもれなく収蔵する国立中央図書館としての使命を果たし始めた1870年以降、蔵書スペースの絶対的不足という問題をつねに抱え、新たに大きな建物に移設する必要があったのです。
立地選択の際、1904年トリノ市中央図書館で起きた火災で、貴重な手書き写本の半数を消失するというできごとを教訓として、万が一の火災に備えて鎮火のための水の便を考えアルノ川河岸のこの場所が選ばれたとのことです。ところが完成から30年後、このときの選択はたいへん皮肉な結果を招くことになります。
フィレンツェ国立中央図書館 閲覧室:天井は吹き抜けのガラス張り。
自然採光により電灯の使用は極力控えられるように設計されている。省エネ設計のさきがけか?
今からおよそ半世紀前の1966年11月、一日に最大で190mmという記録的な集中豪雨がアルノ川流域に数日間にわたって降り続き、11月4日の明け方、ついにフィレンツェの町で大氾濫を起こしました。
20世紀、町の歴史を変えるほどの出来事となった「フィレンツェの大洪水」。町の中心にある大聖堂広場を、黒い濁流が車を押し流しながらものすごいスピードで流れていく信じられないような光景を映したニュース映像は有名です。水は建物の二階部分にまで達し(一番高い所で5m余にも達したといわれています)、流れ去った水のあとに残ったのは、洪水に押し潰された構造物と60万立方mにも及ぶ大量の汚泥。そして水に漬かり泥にまみれた一級品の歴史遺産の数々でした。Firenze, alluvione 1966
ルネッサンスの名画の並ぶウフィッツィ美術館をはじめとし、川沿いに集まる多くの建物が破壊的被害を受けました。ガリレオ・ガリレイやミケランジェロの墓のあるサンタクローチェ教会も収蔵する美術品の8割を失ったと言われています。
水がひいた後、町はすぐさま復興へ向けて動き始めます。また刻々の被害の様子をニュースで知った世界の人々は、洪水による被害を人類共通の歴史遺産の危機と理解し、すぐさま援助の手をさしのべました。中でも50年たった今も人々の口にのぼるのは、「泥の天使」と呼ばれることとなる、ヨーロッパはおろか世界中から自発的に集まったボランティアの若者たちの存在でした。
ウフィッツィ美術館から絵画を運び出す若者たち
濁流にもまれて一時陸の孤島のように孤立した、川沿いに立つ国立中央図書館は、当然のことながら甚大な被害を被りました。設計者の意図に関わらず、「火」ではなく「水」が災厄をもたらしたのです。およそ1,200,000点の書籍、印刷物、手稿類、また図書館にとっての基本機能である6万枚の書誌検索カード、書誌カタログが、「水と汚泥(しかも当時の暖房用給湯設備に用いられていた粗製ガソリン、つまり油分を大量に含んでいました)」をかぶるという最悪の被害状況でした。
地下書庫で水浸しになった書籍を一冊一冊建物の外に運び出し、応急処置として洗浄を行ったり、日干ししたりする活動に従事したのも、イタリア全土から、そして世界中から駆けつけたボランティアの若者たちでした。洪水から数週間で、何トンにもおよぶ泥まみれの本を運び出したというのですから驚きです。
フィレンツェ国立図書館。泥にまみれた本を運ぶボランティアたち
また災害発生直後から、ドイツ、イギリス、アメリカ、チェコスロバキア、オーストリアをはじめとする世界中の研究家、専門技術者がこの地に集まり対応が検討され、緊急の修復工房が開かれました。初めは鉄道駅の構内に、すぐに建物自体の応急処置の済んだ図書館内の地下部分に常設の工房が作られました。さらに国際機関からの資金援助により大きく組織化されました。
洪水から約10年間、最も集中的に復旧が行われた期間、国立中央図書館だけで常時150人の技術者が修復作業に携わっていたと記録されており、書籍関連の修復工房としては、世界最大規模でした。
応急処置を施すために設けられた工房
このように大量の書籍を水と汚泥から救い出すためには、まったく新しい修復のコンセプトが必要だったといいます。また新たな技術の発展もありました。一点一点の被害品に添える調査票が考えだされました。これは人間にとっての医者が書く医療カルテのようなもので、大量の本を多人数の作業員が扱う現場でたいへん役立ちました。
けれど、イタリアにおけるほとんど全ての公共事業が、数十年の単位の時間を必要とするのと同じく、洪水後の約50年たった現在も、被害を受けた書籍類の修復作業はいまだ未完了です。この間、修復が完了し図書館の書庫に戻ることのできたものは一部にすぎません。36,000点の写本、10,000点の大型本がそれらです。
修復作業はいまだな現在進行形。私は今回、その修復工房を見学する機会にめぐまれました。
イタリア政府は70年代、すでに手狭となっていた修復工房の作業スペースの問題を解決するために、図書館から徒歩で5分の場所に位置する、サンタンブロージョ教会付属の旧い修道院跡の2階部分を買い取りました。そして20年かけて修復工房として改造し(この時間感覚も我々日本人には驚きです)、1997年からこの場所に正式に移設されました。
人通りの多い広場に面したサンタンブロージョ教会正面。この左隣に修道院がある
サンタンブロージョ教会は、フィレンツェの下町地区にあり近くには大きな生鮮食料品の市場があります。裏手に広がる修道院は、中世に建造された由緒ある修道院でしたが、反教会的であったナポレオン・ボナパルトの帝政時代(19世紀初め)に、他の多くの修道院同様、閉鎖を余儀なくされ、たくさんの美術品が強奪されたといいます。以後今日にいたるまで、教会系の公共施設としての性格のみ残しながら、様々な用途に転用されてきました。例えば20世紀中ごろには、世界中からやってくる若者たちの宿泊施設となったり、教会系のボーイスカウトの活動拠点、現在、修復工房の真下の一階部分には、市営の幼稚園が間借りしていて、中庭の一部では日中子供たちの明るい声が聞こえます。
修道院入り口
教会の正面玄関左にある、中庭へと続く門を入り、幅1メートルくらいの薄暗い階段を上ると、そこからLの字型に続く長い廊下をはさんで、かつての修道院を彷彿とさせる小さな狭い部屋が幾十と続きます。石造りの建物の内部の建築構造は、他のフィレンツェに残る歴史的建造物と同じに、中世以来ほとんど変わらないのです。長い廊下を順番に歩いて修復工房として改造された部屋を見学しながら、もしそこに誰もいなかったら、部屋部屋の木の扉の向こう側に今まさに修道士がひざまずいて祈りを捧げていても驚かないだろうと思いました。かつて修道院だったそういう祈りに充ちた空間であることが、そこをただよう薄明かりの空気の中にこもっていると感じるのです。
一つ一つの部屋は、書籍修復のそれぞれの工程に応じて分かれており、実際そこにいるのは修復作業に携わる人たちです。往時150人いた修復家の人たちも、今現在残っているはわずか6人だけ。この50年間にいかに予算が縮小されてきたのか、実際の数字としてわかります。新たに雇い入れる若手の修復家もなく、年だけとっていく古株の修復家たちの危機感はただごとではありません。世代間の技術の継承がほとんど困難になっているとなげきます。
イタリアにふたつある国立中央図書館の書籍修復工房は、様々な経緯の末、旧い修道院の中にその位置をしめました。この事実はとても重いと私は思うのです。
修道院はかつて、文化継承の中心で大切な役割を果たしてきました。本の歴史だけ考えても、そこでは多くの写本が作られたり、製本技術が伝承されました。公共図書館の原型が形成されたのも中世の修道院でした。
ナポレオン帝政時代に閉鎖されたイタリア中の多くの修道院が、こうして歴史的な変容をとげつつも、「公共」の意味を引き継いでいっています。こうしたたゆまぬ都市計画の枠組みの中で、きっとこの書籍修復工房も生き残っていけるのではないかと、ひじょうに楽観的な見方をすることはそれほど難しくはないと思います。文化遺産を後世に引き継いでいくことでしぶとく生き残ってきた町の底力を垣間見る思いです。
もうひとつの例。フィレンツェの大聖堂近く、町のど真ん中にあるオブラーテ図書館。ここもかつて修道院だった建物だ。修道士たちは、隣接する救急病院の患者たちのシーツを洗濯する仕事を生業としていた。現在は、欧州でも有数の施設面積を誇る市営図書館となっている。