フィレンツェ便り

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    • 2021年11月

      コロナウイルス禍のフィレンツェ

       パラッツオ・スピネッリ日本校留学アドバイザー緒方牧子(フィレンツェ在住)

    • はじめに

      2020年の真冬、イタリアで最初のコヴィット-19による感染者が公式に確認されたのは、1月30日、ミラノからイタリア入りした中国人観光客でした。その後2月17日に北部のコドーニョで医師の機転でPCR検査の行われた肺炎患者がコロナ陽性であることがわかりイタリアにおける患者1号となり、以後、北部を中心につぎつぎと感染が確認され、22日には152件、北部のみならずすでに全土に感染が広がっていた事実が明らかになり、3月3日時点で、全国で3,089人の陽性者、107人の犠牲者が数えられ、パンデミア対策本部が設置されました。

      そしてその対策として、イタリアが選択したのは徹底的なロックダウンによる押さえ込みでした。1号患者発覚からわずか半月たった3月5日には、まずすべての学校、大学が休講となり、さらに9日には不要な移動の禁止、イベントの中止、美術館の閉館、そして11日からはさらに本格的な政府令が発布され、ほぼ全ての小売店、レストランの営業中止、最低限必要な用事以外の外出禁止(外出時には理由、目的地を明記した許可書を携帯しなければなりませんでした)、市を越えた移動の禁止というひじょうにきびしいロックダウンが敷かれ、それは5月3日まで2ヶ月にわたって続きました。


      きびしいロックダウン下のフィレンツェの暮らし

      上の写真は、そのロックダウンの真っ最中、ドローンを使って撮影されたフィレンツェの旧市街地区の様子です。頃は3月、例年なら観光シーズンが始まって、人でごったがえし自転車で通行することもままならないほど人の波が絶えない地区です。それが観光客はおろか、フィレンツェ人さえひとっこ一人歩いていないという、まるでキリコの絵の世界のように非現実的な光景が数ヶ月も続いたのです。おそらくフィレンツェの何千年もの歴史上、はじめての出来事だろうし、戦争中でさえまだ人の動きがあったと年取った方が語ってくれました。

      ただ驚かされたのは、このような出来事にあたって、イタリア人のリアクションの早さと、現実的な判断力をもってフレキシブルに物事にあたる能力の高さです。

      いくつか例をあげたいと思います。

      マスク

      まずは感染予防のマスク。ご存知のようにイタリアでは(イタリアだけでなくほとんどすべての欧州の国で同様だと思いますが)冬に風邪予防のため使い捨てマスクを着用する習慣は皆無です。25年以上フィレンツェに住んでいて、マスクをして歩いている人を見たことがありません。
      医療用のサージカルマスクは医療関係者のもので、当然一般に流通していませんでしたから、3月の初め、その必要性がわかったときマーケットを始め、薬局でマスクを手にいれることはほぼ不可能でした。
      それが3月の終わりに外出の際のマスク使用が義務付けられると同時に、各市町村でサージカルマスクの無料配布が始まりました。
      フィレンツェの場合、はじめは市の民生委員が一軒一軒足でまわって各戸を直接回りながら人数分X週10枚のマスクを配って歩くという、とりあえずの人海戦術によるマスク配布がはじまり、それも10日ほどたつと保険証カード(バーコードつき)を提示して薬局で一人10枚ずつマスクが受け取れるようになり、そうこうしているうちにあっというまに市場に輸入マスクが出回りました。もちろん国産マスクの製造も急ピッチで、一時はグッチなどのブランド会社も製造ラインに手をくわえてサージカルマスクを製造しはじめて、無の状態からわずか1ヶ月で必要なマスクを手にいれるのに苦労しなくなりました。

      スーパーマーケット前の行列

      外出の正当な理由づけがあり堂々と外を歩けたのが食料品調達。そのためか必要以上に買い物に来る人が増え、当初からスーパーマーケットの前には、信じられないほどの長い行列ができて、中に入るまでに1時間以上も待たねばならないときもありました。


      これはショッピングセンター前の入店のための行列の様子です。私にとってはこの写真も強烈な印象となって記憶に残っています。何より、イタリア人が粛々と行列を作って何かを待って並んでいる光景を見たのは本当に今回が始めてです。しかもちゃんと5メートル間隔で、マスクをつけて。これはフィレンツェで見た、どのマーケットの前でも同じでした。なんだいざとなるとできるんじゃんと、驚きの気持ちとそのプラグマティズムな精神に頭がさがりました。

      さらに驚きだったのは、それからわずか2週間ほどたつと、あっという間に携帯アプリが開発されて、スーパーマーケットごとに買い物時間の予約が入れられるようになり、待たずに入店できるシステムが驚きのスピードでできあがって、この行列の風景が消えていき、本当に便利になりました。
      スーパーだけでなく、行列のできていた郵便局、税務署などの公的機関にも同じように順番とりのためのアプリができて、「a domani まあ、明日ね」が口癖の、のんびりしたイタリア人がこれをこのスピードで作ったと思うと驚きでした。

      リモートレッスン

      3月5日に前触れなく、当初1週間の予定で閉校となり、その後すぐに1ヶ月、現実には3ヶ月間、家で勉強することになった子供たちに対しても、ほぼ1週間後にはさまざまなアプリケーションを使って、それを操れる先生から順不動にリモートレッスンが始まりました。最初は確か1日1時間。でも2週間後にはもう時間割さえできて普段どおりのリズムで授業が受けられるようになりました。
      年配の先生方の多い高校に通っていた息子の様子を見ていて、やはりイタリア人のIT順応能力の高さ、そして何より授業形態が大きく変わった事に対してのフレキシブルな対応、素晴らしいと思いました。
      そもそもイタリア人は、ローマ時代から「語り」の文化を持っていて、子供たちもすでに小学校のときから大学まで、試験の半分は口頭試験。裁判所でもしゃべり負かしてなんぼという人たちなので、リモートレッスンを聞かせてもらいましたが、語って説明することの見事なまでの上手なこと。パッションさえ感じさせる授業。引き込まれました。息子はまだパソコンがなくて携帯電話で授業を受けていたのですが、たとえ先生の姿が小さくしか見えなくても、語りの力で充分何かを伝える能力のあるイタリア人たちにびっくりしました。

      パラッツォ・スピネッリの日本人留学生たち

      とはいえ、人生はじめての経験であるロックダウンの生活は、きびしいものでした。私は子供たちのたくさんやって来る柔道場で仕事をしているのですが、あとで親たちに話を聞くと、兄弟のある子はまだしも、外へ出ることのできない生活、単調な生活、いつ果てるともしれない不安を抱えた生活は、家庭という地に根っこのはえた地盤をもつイタリア人家族にとっても試練だったとみな言います。
      ましてやパラッツォ・スピネッリの日本人留学生の人たちにとってはきっと言葉ではいえないほど、たいへんな毎日だったと思います。学生アパートに入居している人は同居人がいて話し相手がいた人もいますが、スカイプなどを使って、日本の両親、友だちと連絡をとりあいながら、慣れない外国生活の中で、一人一人がまっすぐじぶんの本来の目標を見失うことなく勉強に打ち込んで日々を過ごしてきたからこそ、きっと孤独に耐えてがんばれたのだと思います。
      たいへんな経験だったけれど、誰一人逃げ出すことなく、いまあれから1年半たって卒業試験に向けての最後の勉強に励んでいることと思います。

      昨年夏、厳しいロックダウンが解除されて束の間、自由に外出できたり人と会ったりすることができるようになった頃、市場の近くにできた居酒屋風の和食屋さんでみんなと会食したことがありました。みんな困難を乗り越えたあとの爽やかな笑顔であらわれて、心なしか頼もしさを身につけた感じで、たいへんな時期を過ごしたけれどきっと人として得たものも大きかったのではないかと思います。みんなのこれからを心から祝福したいです。

    • 2014.1.28

      フィレンツェ国立中央図書館の書籍修復工房を訪ねて

        パラッツオ・スピネッリ日本校留学アドバイザー 緒方 牧子(フィレンツェ在住)

    • イタリアには、国立中央図書館が二つあります。そのうちの一つ、フィレンツェ国立中央図書館の建物は、20世紀初め、騎兵隊の駐屯する兵舎だった建物を全面的に改造し建造されたものです(1911-1935年完成)。フィレンツェの歴史地区にある建物としては比較的新しい建物で、町の中心を流れるアルノ川のほとりにあります。下の写真、図書館の後ろに立つ建物(右手に鐘楼、左手にファサードが見えます)はサンタクローチェ教会で、図書館の真下は土手になっていて、その下を川が流れています。

      アルノ川にのぞむフィレンツェ国立中央図書館正面玄関

      ウフィッツィ美術館裏にあった旧い図書館は、イタリア国内で出版される本をもれなく収蔵する国立中央図書館としての使命を果たし始めた1870年以降、蔵書スペースの絶対的不足という問題をつねに抱え、新たに大きな建物に移設する必要があったのです。

      立地選択の際、1904年トリノ市中央図書館で起きた火災で、貴重な手書き写本の半数を消失するというできごとを教訓として、万が一の火災に備えて鎮火のための水の便を考えアルノ川河岸のこの場所が選ばれたとのことです。ところが完成から30年後、このときの選択はたいへん皮肉な結果を招くことになります。

      フィレンツェ国立中央図書館 閲覧室:天井は吹き抜けのガラス張り。
      自然採光により電灯の使用は極力控えられるように設計されている。省エネ設計のさきがけか?

      今からおよそ半世紀前の1966年11月、一日に最大で190mmという記録的な集中豪雨がアルノ川流域に数日間にわたって降り続き、11月4日の明け方、ついにフィレンツェの町で大氾濫を起こしました。

      20世紀、町の歴史を変えるほどの出来事となった「フィレンツェの大洪水」。町の中心にある大聖堂広場を、黒い濁流が車を押し流しながらものすごいスピードで流れていく信じられないような光景を映したニュース映像は有名です。水は建物の二階部分にまで達し(一番高い所で5m余にも達したといわれています)、流れ去った水のあとに残ったのは、洪水に押し潰された構造物と60万立方mにも及ぶ大量の汚泥。そして水に漬かり泥にまみれた一級品の歴史遺産の数々でした。Firenze, alluvione 1966
      ルネッサンスの名画の並ぶウフィッツィ美術館をはじめとし、川沿いに集まる多くの建物が破壊的被害を受けました。ガリレオ・ガリレイやミケランジェロの墓のあるサンタクローチェ教会も収蔵する美術品の8割を失ったと言われています。

      水がひいた後、町はすぐさま復興へ向けて動き始めます。また刻々の被害の様子をニュースで知った世界の人々は、洪水による被害を人類共通の歴史遺産の危機と理解し、すぐさま援助の手をさしのべました。中でも50年たった今も人々の口にのぼるのは、「泥の天使」と呼ばれることとなる、ヨーロッパはおろか世界中から自発的に集まったボランティアの若者たちの存在でした。

      ウフィッツィ美術館から絵画を運び出す若者たち

      濁流にもまれて一時陸の孤島のように孤立した、川沿いに立つ国立中央図書館は、当然のことながら甚大な被害を被りました。設計者の意図に関わらず、「火」ではなく「水」が災厄をもたらしたのです。およそ1,200,000点の書籍、印刷物、手稿類、また図書館にとっての基本機能である6万枚の書誌検索カード、書誌カタログが、「水と汚泥(しかも当時の暖房用給湯設備に用いられていた粗製ガソリン、つまり油分を大量に含んでいました)」をかぶるという最悪の被害状況でした。
      地下書庫で水浸しになった書籍を一冊一冊建物の外に運び出し、応急処置として洗浄を行ったり、日干ししたりする活動に従事したのも、イタリア全土から、そして世界中から駆けつけたボランティアの若者たちでした。洪水から数週間で、何トンにもおよぶ泥まみれの本を運び出したというのですから驚きです。

      フィレンツェ国立図書館。泥にまみれた本を運ぶボランティアたち

      また災害発生直後から、ドイツ、イギリス、アメリカ、チェコスロバキア、オーストリアをはじめとする世界中の研究家、専門技術者がこの地に集まり対応が検討され、緊急の修復工房が開かれました。初めは鉄道駅の構内に、すぐに建物自体の応急処置の済んだ図書館内の地下部分に常設の工房が作られました。さらに国際機関からの資金援助により大きく組織化されました。
      洪水から約10年間、最も集中的に復旧が行われた期間、国立中央図書館だけで常時150人の技術者が修復作業に携わっていたと記録されており、書籍関連の修復工房としては、世界最大規模でした。

      応急処置を施すために設けられた工房

      このように大量の書籍を水と汚泥から救い出すためには、まったく新しい修復のコンセプトが必要だったといいます。また新たな技術の発展もありました。一点一点の被害品に添える調査票が考えだされました。これは人間にとっての医者が書く医療カルテのようなもので、大量の本を多人数の作業員が扱う現場でたいへん役立ちました。

      けれど、イタリアにおけるほとんど全ての公共事業が、数十年の単位の時間を必要とするのと同じく、洪水後の約50年たった現在も、被害を受けた書籍類の修復作業はいまだ未完了です。この間、修復が完了し図書館の書庫に戻ることのできたものは一部にすぎません。36,000点の写本、10,000点の大型本がそれらです。 修復作業はいまだな現在進行形。私は今回、その修復工房を見学する機会にめぐまれました。

      イタリア政府は70年代、すでに手狭となっていた修復工房の作業スペースの問題を解決するために、図書館から徒歩で5分の場所に位置する、サンタンブロージョ教会付属の旧い修道院跡の2階部分を買い取りました。そして20年かけて修復工房として改造し(この時間感覚も我々日本人には驚きです)、1997年からこの場所に正式に移設されました。

      人通りの多い広場に面したサンタンブロージョ教会正面。この左隣に修道院がある

      サンタンブロージョ教会は、フィレンツェの下町地区にあり近くには大きな生鮮食料品の市場があります。裏手に広がる修道院は、中世に建造された由緒ある修道院でしたが、反教会的であったナポレオン・ボナパルトの帝政時代(19世紀初め)に、他の多くの修道院同様、閉鎖を余儀なくされ、たくさんの美術品が強奪されたといいます。以後今日にいたるまで、教会系の公共施設としての性格のみ残しながら、様々な用途に転用されてきました。例えば20世紀中ごろには、世界中からやってくる若者たちの宿泊施設となったり、教会系のボーイスカウトの活動拠点、現在、修復工房の真下の一階部分には、市営の幼稚園が間借りしていて、中庭の一部では日中子供たちの明るい声が聞こえます。

      修道院入り口

      教会の正面玄関左にある、中庭へと続く門を入り、幅1メートルくらいの薄暗い階段を上ると、そこからLの字型に続く長い廊下をはさんで、かつての修道院を彷彿とさせる小さな狭い部屋が幾十と続きます。石造りの建物の内部の建築構造は、他のフィレンツェに残る歴史的建造物と同じに、中世以来ほとんど変わらないのです。長い廊下を順番に歩いて修復工房として改造された部屋を見学しながら、もしそこに誰もいなかったら、部屋部屋の木の扉の向こう側に今まさに修道士がひざまずいて祈りを捧げていても驚かないだろうと思いました。かつて修道院だったそういう祈りに充ちた空間であることが、そこをただよう薄明かりの空気の中にこもっていると感じるのです。

      一つ一つの部屋は、書籍修復のそれぞれの工程に応じて分かれており、実際そこにいるのは修復作業に携わる人たちです。往時150人いた修復家の人たちも、今現在残っているはわずか6人だけ。この50年間にいかに予算が縮小されてきたのか、実際の数字としてわかります。新たに雇い入れる若手の修復家もなく、年だけとっていく古株の修復家たちの危機感はただごとではありません。世代間の技術の継承がほとんど困難になっているとなげきます。

      イタリアにふたつある国立中央図書館の書籍修復工房は、様々な経緯の末、旧い修道院の中にその位置をしめました。この事実はとても重いと私は思うのです。 修道院はかつて、文化継承の中心で大切な役割を果たしてきました。本の歴史だけ考えても、そこでは多くの写本が作られたり、製本技術が伝承されました。公共図書館の原型が形成されたのも中世の修道院でした。 ナポレオン帝政時代に閉鎖されたイタリア中の多くの修道院が、こうして歴史的な変容をとげつつも、「公共」の意味を引き継いでいっています。こうしたたゆまぬ都市計画の枠組みの中で、きっとこの書籍修復工房も生き残っていけるのではないかと、ひじょうに楽観的な見方をすることはそれほど難しくはないと思います。文化遺産を後世に引き継いでいくことでしぶとく生き残ってきた町の底力を垣間見る思いです。

      もうひとつの例。フィレンツェの大聖堂近く、町のど真ん中にあるオブラーテ図書館。ここもかつて修道院だった建物だ。修道士たちは、隣接する救急病院の患者たちのシーツを洗濯する仕事を生業としていた。現在は、欧州でも有数の施設面積を誇る市営図書館となっている。


    • 2013.7.6

      芸術の街 フィレンツェへ留学

    • 絵画修復のロマンを求めて

      当学院は、イタリア・フィレンツェ、トスカーナ州公認パラッツオ・スピネッリ芸術修復学院(IAR)の日本校です。2015年度よりイタリア本校の日本事務局として、再スタートを切りました。特に、高等学校卒業者のイタリア留学は、希望者には更に進学の道が開かれ、早期に将来の選択が可能です。時間に余裕を以て外国で学ぶ事は経済的にも、負担が生ずる事も事実です、その為にもできるだけ若年層であって欲しいと願います。
      上記理由(修復士取得には、5年間の教育機関での履修が義務づけられています。)
      学生は絵画修復本科3年制の1年目を東京、2年目にフィレンツェ本校に留学します。従って卒業証書(DIPLOMA)はイタリアにて授与されます。
      私達の使命は、修復技術士を育成する事が本来の目的ですが、学生が幅広い知識と世界観を養う為に、他国での人々との交流は、留学を通してその国の文化を吸収する上でも、修復だけでなく、すべての道に活かせる事が出来ます。勿論、何処にいても、何をしても、諦めず努力することが大切です。
      絵画修復科を卒業後は、進学コースが、幾つかあります。マスターコース、フィレンツェ国際修復大学(修復士、学位)への編入、他修復各種コース、と目的に合わせて選択できます。
      1年次、学問である「修復」を自国の言葉で理解する事から始まります。又イタリア語講座も含め、2年次イタリア留学に繋げる為に日本での履修は、大変不可欠な物と成ります。
      日本の1年生は、4月〜8月の入学が開校されます。
      留学VISA申請は7月。10月イタリア本校にて2年生の授業開始となります。

      フィレンツェは、世界の人々が心惹かれる魅力がある街です。学生の45%~50%が留学生で、此のことからでもすべてを物語っています。
      メディチ家の壮大な歴史とその時代に活躍した芸術家を並べれば、限が有りません。ルネッサンスから500年の時を、今尚、生き続けるフィレンツェで他国の文化を、是非、体験して下さい。留学は、貴方方の進む道に、大きな力と成り、掛け替えのない人生の一駒となります。




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