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セローニ教授
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セローニ教授
ラファエッロ「自画像」を洗浄するセローニ(於:輝石修復研究所)
セローニ

マッシモ・セローニ Massimo Seroni

1943年6月23日、フィレンツェに生まれる。文化財修復家 。
フィレンツェ在住、グイド・グェッラ通り19番地
massimoseroni@virgilio.it


 E.マジーニのアトリエで研鑽を積み、1963年には、U.バルディーニの指導のもとで、フィレンツェの文化財保護局から委嘱された仕事に加わる(1968年には、ヴァルデルザで開かれた美術展のための修復)。
  同時期、フィレンツェ美術学校を卒業、マジーニのもとで研究をつづけ、フィレンツェ市(ロッセール財団の絵画、パラッツォ・ヴェッキオ展示室の絵画、フィレンツェのサン・ジョヴァンニーノ教会の絵画)、ナポリ市の文化財保護局(カポディモンテ美術館の絵画、サン・マルティーノ教会、1963〜65年)、バーリ市の文化財保護局(県立絵画館の絵画、1964年)の依頼による修復作業にたずさわる。その一方で、フィレンツェの文化財保護局との関係もつづいており、初期の修復工房の修復家グループに加わり、当時のフィレンツェで修復展に出品された国有財産の絵画の修復作業にもたずさわる(フィレンツェでのカラヴァッジョ派展、フィレンツェの美術館のフランス絵画、17世紀のボローニャ派絵画その他)。
  1966年のフィレンツェ大洪水の際には、市内で洪水の被害に遭った絵画に対する緊急保護や最初の作業にたずさわる。フォルテッツァ・ダ・バッソに設置された修復所において、損傷を受けたタブローやカンバスの修復にあたり、絵画表面を<移す>作業に関してとくに経験を積む。この時期に行った精力的な活動において、さまざまなかたちでの教育や訓練を行う作業グループの指導的存在となる(1967年)。
  1973年、国家行政機関に勤務し、主席修復家に昇任する(1985年)。オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレ修復学校(輝石修復研究所付属修復学校
)の開校に伴い、教官として就任(1978年)。行政職に在職中、同教官を続ける一方で、カラーブリア州の学校において、入試委員会および審査委員会のメンバーとなる(1980年)。また、フォルテッツァ・ダ・バッソ修復所(輝石修復研究所の絵画セクションのこと)の絵画部門および付属教育機関のテクニカル・コーディネーターを務める。
  1986年に行政職を辞したのちも、修復局との個人的な協力関係をつづける。フィレンツェの文化財保護局の依頼を受け、その管轄地域および美術館での修復作業にたずさわる(サン・カシャーノ、タヴァルネッレ、エンポリの各美術館、クァラッキのサン・ピエロ教会、バルジーノ、ピエーヴェ・ディ・レグリ、ロメーナ、サン・パンクラツィオの各教会、パラティーナ美術館、サン・サルヴィ美術館)。
  現在は、フィレンツェの文化財保護局のための専門的活動を行うとともに、さまざまな修復学校のコンサルタントとしても活動。さらに、フィレンツェのパラッツォ・スピネッリ芸術修復学院において最終学年の生徒たちの修復の授業を受け持つとともに、ラテンアメリカや日本の同校の分校においても講義を行う。
  手がけた修復作品は、ウフィッツィ美術館、パラティーノ美術館、アカデミア美術館、サンタ・クローチェ教会、サン・マルコ教会、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会、サン・ドメニコ教会、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会など、フィレンツェの主要な美術館や教会に収められている。
  また、執筆した論文は、次の資料のなかに読むことができる。『OPD*:修復、手法および科学』(展覧会カタログ)、『傑作と修復』(展覧会カタログ)、『19世紀のイタリア絵画』(エディツィオーニ1+1、パドヴァ)、『アンドレア・デル・サルト:フィレンツェにおける絵画とデッサン』(展覧会カタログ)。

*OPD= 輝石修復研究所修復報告書

 

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