イタリア本校に留学した体験談

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卒業生のみなさん
ご卒業、おめでとうございます。
2019年9月にイタリア本校に留学された方々の3年間の貴重な体験談です。
充実した日々、周囲の方々への感謝が綴られており、これから留学を目指す皆様に是非お読みいただきたいと思います。

イタリア本校に留学した体験

大森実可子

はじめに

 所属していたコースの卒業から一ヶ月以上経ちましたが、正直まだあまり実感が湧きません。今から思えば右も左もほとんどわからないままイタリアに行き、滞在のほとんどがコロナ禍であった中、なんとか卒業までたどり着きました。それは人生の中で間違いなく1番楽しく、充実していて、かつ1番辛い時期だったと思っています。本当に色々なことがありましたが、思い出しつつここに記していきたいと思います。
 私たちは2019年の秋ごろイタリアに入国し、二年時に編入という形で学校の授業が始まりました。修復理論や化学、美術史に関する座学や絵画修復に必要な実技など本当に様々な授業がありました。その中でもやはり印象に残ったのは実技の授業です。授業では教会や個人の所蔵者などから預けられた本物の絵画に修復作業を行ないつつ、教授から指導受けることができます。様々な要因で損傷してしまった絵画を目の前で観察して、教授とクラスメイトと一緒にどのような修復処置が最善かを考え、それを実行していきます。修復に関する化学知識や作品の美術史的背景を下にいつも緊張感を持って作業にあたっていたことを覚えています。実際の絵画に触れ、大変貴重で面白い授業を受けることができた反面、言葉の壁に早々にぶち当たり、はじめは教授や周り人の話す言葉がほとんど理解できず、実際に修復処置を行なうことが怖くて仕方がありませんでした。時間と共に少しずつ理解が深まり、自信もつきましたが、最初は授業についていくのが大変でした。幸い、教授や周りの同期に恵まれ、まわりの助けがなければ最後までやり抜くことはできなかったと思っています。また、実際に自分が修復作業に関わった作品が教会に設置されたところを見た時の感動に勝るものはありません。イタリアで絵画修復技術を学べた喜びは大きいです。
絵画の画面洗浄 絵画の画面洗浄   絵画の画面洗浄

イタリアで生活すること

 滞在のほとんどがコロナ禍であったのですが、最初のころはコロナに関する制限についていくことが大変でした。指定のマスク着用、ワクチン接種、衛生パスでの利用施設制限、州外内の移動制限など今から考える思ったよりも制限があったことに驚きます。目まぐるしく変わる情報を追うのも大変でしたし、最初はこんなことになると思ってもいなかったので精神的にも辛かったです。情報収集するにもイタリア語もおぼつかない中、在伊日本大使館や日本の外務省が発信する情報にはとても助けられました。二度のワクチン接種の際も自分の住んでいた州の公式情報とそのような公的機関の情報とを照らし合わせてなんとか受けることができました。あたりまえなことかもしれませんがやはり個人的感じたのは情報収集の大切さだと思います。滞在に関する書類を準備したり、アパートを借りたり、色々なことがあります。人によって言ってることが異なることもあるので、色々な人に相談したり、直接関係機関に尋ねたりしました。もともとは質問することが苦手でしたが、私が心配性なのもありたくさんの人にいろいろなことを尋ねました。このおかげで疑問が生じた時すぐに質問するようになり、イタリア語の自信もつきました。間違えても恐れず人に質問することはとても大切だと感じました。

息抜き

 授業にインターンシップ、卒業論文制作、試験の準備の合間をぬって、よくフィレンツェのカフェ巡りをしていました。日本に比べて、お店も多くコーヒーが安く美味しいので、気軽に立ち寄ることができます。また、コロナ禍ではありましたが、イタリアでしか見れない美術作品や自然の景色を見るために色々な場所に足を運びました。学業に専念するにあたって、煮詰まらないためにも美術以外のことに触れて息抜きをするのも良いと思います。
フィレンツェのクリスマス。ドゥオモ前
 フィレンツェのクリスマス。ドゥオモ前
北イタリアでのトレッキング
 北イタリアでのトレッキング

最後に

 通常でもきっとわからないことだらけなのに、この状況でイタリアでの留学を選択することはとても勇気がいることだと思います。確かに今後どうなるかは誰にもわかりません。不安も大きいと思います。ですが何かを学びたいというその熱意があればきっと乗り越えることができると思います。応援しています。

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パラッツォスピネッリの学生として過ごすコロナ禍

小西結衣


 2019年の春、パラッツォスピネッリ日本校に入学し、その年の9月にイタリア、フィレンツェへ来ました。10月からすぐに2年生の授業が始まり、期待と少しの不安を抱えつつ迎えた最初の授業の日を今でもよく覚えています。教授たちはもちろん、クラスメイトたちも皆温かく私たち日本人を迎えてくれました。
コロナ禍前のフィレンツェの様子
 イタリアに着いてすぐ、コロナ禍前のフィレンツェの様子
 クリスマス休みを挟んで1月、授業が再開したと同時にコロナウイルスのニュースが話題となり、3月には学校が閉鎖され、イタリア全土がいわゆる“ロックダウン”状態になりました。ロックダウン下、教授達からはよく「State bene tutti?(みんな大丈夫?)」とメッセージが来て、家にいながらできる課題を送ってくれていました。2年生のカリキュラムにはインターンシップも組み込まれていましたが、コロナ禍で受け入れてくれる工房も少なく、私がインターンシップを開始できたのはその年の10月でした。インターン先が決まるまで学校での授業もなく、ただ家にいることしかできない間、ただでさえまだイタリアに来て間もなく言葉も何もかも不安なままだった私は、毎日とにかく 映画やテレビを見ながらイタリア語をひたすら聞き続けました。それにイタリア人とアメリカ人の女の子たちとシェアハウスをしていた私は、一人でいるよりは精神的にも支えられていたと思います。またパラッツォスピネッリ日本校留学アドバイザーでフィレンツェ在住の緒方さんは、いつも私たち日本人学生のことを気にかけてくださり、イタリア政府から新しい政令が出されるたびに私たちにも分かるように日本語に訳して連絡を送ってくださいました。私たちにとって、あの時瞬時に正しく情報を得られたのはとてもありがたかったです。
 外出できるようになってから、私は他のイタリア人と出会い会話をするチャンスを探しました。インターネットでガイドツアーなどを探し、興味のあるものを見つけては予約し一人で参加しに行っていました。どのガイドツアーに参加しても、日本人である私に対して分かるようにゆっくり話してくれたり、明るく接してくれるイタリアの人たちにいつも助けられました。
ロックダウン下で誰もいないサンタ・クローチェ教会前
 ロックダウン下で誰もいないサンタ・クローチェ教会前
ヴェッキオ宮殿前
 ヴェッキオ宮殿前

ロックダウン下、家で修復の本を読みながら勉強している様子
ロックダウン下、家で修復の本を読みながら勉強している様子
貴石博物館のガイドツアーに参加した時の様子
 貴石博物館のガイドツアーに参加した時の様子

フィレンツェ大聖堂博物館のガイドツアーに参加した時の様子
 フィレンツェ大聖堂博物館のガイドツアーに参加した時の様子
 10月に学校の事務の方から私のインターン受け入れ先が決まったと知らせを聞いた時、やっとまた修復を学べると歓喜しました。その人と話しながら「あなたイタリア語がとっても上達したね!」と喜んでもらい、ロックダウン下の不安の中でも希望を捨てずにひたすらイタリア語を聞き続けた頑張りが救われたような気がしました。 受け入れ先の工房では、ちょうど教会の大きな絵を修復する仕事があり、実際に教会の中に組まれた足場に登って作業を行いました。教会の中で修復士と共に補彩をしながら、(ああ今私はフィレンツェで修復をしている…)と夢にみた世界に今自分がいることを噛み締めていました。

コロナに感染し自宅隔離中に家に届いた感染者用ゴミ袋
 コロナに感染し自宅隔離中に家に届いた感染者用ゴミ袋
 2021年の1月からは3年生の授業が始まり、より実践的な授業が始まったところで3月、私がコロナに感染しました。クラスメイトもみんな1週間自宅隔離になり、私は学校に戻れるまで約1ヶ月かかりました。隔離期間中、症状がほとんど無かったので身体的な問題もなく、保健所への連絡も学校が手配をしてくれたので安心して過ごすことができました。


卒業後クラスメイトたちとローリエの冠を被って散歩
 卒業後クラスメイトたちとローリエの冠を被って散歩


ボローニャの工房での作業の様子
 ボローニャの工房での作業の様子
 3年生の授業は7月で終わり、夏休みの後はインターンシップと最終試験を残すのみでした。私は三年次のインターンシップはフィレンツェではなく、ボローニャの工房で3ヶ月間行いました。フィレンツェとは違う町で新しい人に出会い、そこで修復を学ぶことで、同じイタリアでも町によって景色も文化も変わり、それに伴い修復も変わることを肌で感じ、とても貴重な経験となりました。
 12月、いよいよ最終試験。筆記、実技、口頭試験の三つがありましたが、不安や緊張で固くなっている私たち生徒を教授や試験官の方々が常に勇気付けてくれていたので、みんな3年間の成果を出し切ることができたように思います。

 卒業後はフィレンツェに残る人、家族のいる町や国に帰る人など様々でしたが、私はモデナというボローニャから電車で30分ほどの小さな町に引っ越し、仕事を探すことに決めました。結果的には、インターン先だったボローニャの工房で仕事をもらい、現在はそこで修復技術者として働いています。これは奇跡のようなことだと私は思います。

 修復技術者として働けていることだけでなく、イタリアに来てからの約2年間を振り返るとコロナ禍という難しい状況下だったからこそ得られた出会いや経験がたくさんあることに気付きます。ロックダウン中は、会えないからこそいつもそばにいてくれた友人や家族の大切さ、特に私はまめに連絡を取れるようなタイプではないのでそんな中でも気にかけてメッセージや電話をくれる友人の存在に本当に救われました。ロックダウンが終わった後は、バールでコーヒーを飲んでいるときやスーパーで買い物をするときでも、イタリアの人たちの明るい笑顔や挨拶、「いい1日を!」と言い合えるような日常に幸せを感じることが出来ました。

長い様であっという間だったこの2年間、たくさんの人に支えられ励まされ前を向く勇気をもらい、自信を持って進むことができました。コロナ禍、一人でいる時間が長かったからこそより人に助けられ人の優しさに触れることができたように思います。ありがとうGrazieの言葉では足りないほど、感謝の気持ちでいっぱいです。

 最後に、パラッツォスピネッリ日本校で出会った3人と共に4人でイタリアへ来て修復を学び、コロナ禍を乗り越えてみんなで卒業することができたことを私は心から嬉しく思います。私にとって東京からイタリアに来て卒業するまでの期間、彼女たちと過ごした日々はかけがえのないものであり、彼女たちは共に苦しい時期を乗り越えた戦友のような存在です。フィレンツェにいていつでもすぐに会えたこれまでと違い、卒業してバラバラになった今だからこそどれだけ支えられていたかを痛感します。どこにいても彼女たちのこれからの活躍を心から願います。

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私の経過した留学時代

令和4年2月12日 橋本果和


 私の過ごした三年間とその運命的な出来事の全てについて、詳しく記録するとすれば、私は一冊の本を書き上げなければなりません。それほど私はこの三年間を人生の契機として認識しています。

 私は大学で油彩を専攻しました。その頃も夢中でした。もちろん西洋美術史を学び、自分の作品に生かそうともしましたが日本の美術大学で学べる“美術史”は、本場西洋の子供達が学ぶ全体量の何%満たせるのだろうという具合です。とにかく四年間絵を学び、結局芸術は解らないままでした。

 そんな中途半端な気持ちでお茶を濁しながら毎日過ごしていたところ、友人とイタリア旅行をする機会に恵まれました。ちょうどその時期、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が修復されており、その修復されたてほやほやがウフィツィでお披露目されていたのです。偶然にも現物を目にした私は、比喩では無くようやく自分の目指す芸術への関わり方を教えられたのです。その勢いのままイタリアでも屈指と評されるこの学校への入学を決めました。なぜかはわかりませんがこの時、修復チームの映像が特に印象的であったのを覚えております。ともかくイタリアという修復において最前線の場で学んでやろうと飛び込むことにしたのです。

 それでもやはり腹の底では一体これで正しかったのだろうか、この先自分はどう進めば良いのだろうと不安を抱いたまま大学を卒業し、一年間留学費用のために奔走することになります。そこからは瞬く間でした。以前と同じ不安を腹に隠したままついに外国へ渡ったのです。外国で勉強させていただく以上、何かにつけて責任がつきまといます。生活する、ただこれだけのことが本当に難しい。学校の勉強もままならず、できるだけ骨を折って何かをしようともがきました。更に困難に追い打ちをかける感染病という壁が立ちはだかります。

 当時は皆が皆不安でした。一筋の光も見えないまま学校は休校になり、街は無人になりました。不幸なことに、この地において、我々外国人が一番やりづらい。人知れず、皆が陰鬱な毎日を送ったことでしょう。神経衰弱に罹った人もこの頃は多かったと聞きます。進んでも進んでもなににもぶつからず、どう進めばいいかも解らない、そんな不愉快な日々でした。

 ここで私が思う唯一の幸運は、関わる人間に恵まれたことです。同期、大人達、友人。環境がそうさせたのか、パンデミックという前代未聞の状況下で仲間意識が強まったのかは解りません。全員が互いを一個の人間として認めていました。勿論争いが無かったと言えば嘘になります。これはかなりポジティブな意味での争いです。自分の意見を発信していかなければ、その当否は別として自分を持っていないということになるのです。このような環境で、自分が一個の独立した日本人であるという自意識がはじめて芽生えた気がしています。多くのことを彼らから啓発されました。とにかくこのような特異な学年は他には無かったとイタリア校の学長からも卒業の際にお言葉がありました。

 以前までの煩悶は殆ど消えたと言っても嘘ではありません。今では陽気な心でもって美しいこの国を眺めています。今だから言えることですが、私はこのパンデミックが留学生活に及ぼした影響についてかなり前向きに捉えております。感染症の世界的流行が無ければ、ここまで人とのつながり、同期との絆を意識することは無かったとすら感じております。祖国へ帰った後、立派に仕事をしてやろうという気にすらなりました。外国へ発ったときよりも今の方が、明らかに気概が強くなったのです。

 イタリアという国の因習、人情、習慣、そして国民の性格は日本人にとって当然馴染みの薄いものです。更には昨今の状況下において留学という選択肢はかなりの困難と隣り合わせになるかもしれません。ここまでは私の経験を私の目線でざっと記録しただけなのですが、もしかしたら私と同じようにどこか中途半端な、進むことに悩んでいる人が少なからずいらっしゃるだろうと思うのです。もしそうだとすれば、どうしても何かにぶち当たるまで進んでほしいと思います。これは何も修復だけに言えることでは無いのですが、修復という世界はストイックさが必要になります。ストイックに進み続けて自分の力で何かを掴むところまで行くということは、人生においてもかなり重要なものではないでしょうか。こういう煩悶を一度でも通過する経験を得たとき、初めて“生きている”と心底から実感出来るのだと思います。今は情勢的に難しいから、と煮え切らない思いを抱えたままでいては自分が愉快ではないのでは、と思うのです。やり遂げたその時、きっと容易には崩されることの無い自信が芽生えてくることと思います。

橋本さん写真
橋本さん写真

 一人でも多くの若者が一歩を踏み出せる事を希望しつつ、貴重な経験を与えてくださった学校の広告の一助になれば嬉しく存じます。

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イタリア留学を振り返って

田名網咲良


  小さい頃から修復士になりたいという夢を持っていましたが、この学校に出会い明確な目標となりました。

 イタリア本校で授業を受けるにあたっては、日本校の先生方からの充実したサポートにより現地で有意義な留学生活を送るための準備をする事が出来ました。

 イタリア本校では実践的な授業が充実しており、教授方の指導のもとで本物の作品への修復処置を行えるため、座学で学んだ内容の理解をより深められました。
また、国際色豊かなクラスメイトとの交流を通じて視野を広げられたり、経験豊富な教授方の技術を間近で見ることが出来る貴重な環境が、目標への道のりをより明確にしてくれました。

 そして、工房で行われたインターンシップでは”職業としての修復”というものを知ることが出来たと思います。毎年違う工房で研修をさせて頂きましたが、真摯に作品と向き合う姿に、仕事に対する誇りを感じ、より一層、修復への気持ちが強くなりました。

 初めは知らない事に囲まれて不安な気持ちもありましたが、学校だけではなく、ルームメイトや語学学校でできた友達など、それぞれの目標を持って努力をしている人達との出会いから得られる新鮮な気持ちもモチベーションになったと思います。

 留学生活に慣れ始めた頃にコロナウイルスの影響を受ける事になりましたが、幸いなことに勉強を続けられて無事に卒業することが出来ました。
 卒業証書を受け取った時は本当に嬉しく、支えて下さった方々への感謝の気持ちでいっぱいになりました。また、慣れ親しんだ日本という国を離れたことで、当たり前に得られていた環境や人への感謝の気持ちにも改めて気付く事が出来ました。

 今後もこの経験を糧にして進み続けたいと思います。

  最後に、留学をサポートしてくださった日本校の先生方、いつも応援してくれた友人や家族、イタリア校の教授方や事務スタッフの方々、そして常に暖かく留学生活を支えてくださった緒方さん。
 本当にありがとうございました。
ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの街
ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの街

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体験記

上原文枝


 イタリア本校には、さまざまな国から勇気を持ってひとりひとりが入学を決意してきている。この学校に学んで、ずっと耳に残っている日本とイタリアの考え方の違いがある。日本では「修復は誰がやっても同じように」と聞かされた。一方、イタリアでは「Ogni uno diversa. Pensate e decidete voi.」。どちらが正しいというのではなく、同じ対象に向きあうとき、同じ方向に人の思考が向かっているとは限らない。そういうものだ、と思い込んでいることが違うことが往々にしてある。軽視した他人の意見が自分の見落としたものということもある。それぞれの人が同じことをするのではなく、少しずつ違ったところからより最適な解を探るようなクラス、先生との関係が自分には新鮮だった。自分は元来内向きな性質で、そういう場にいることだけでエネルギーを消費してしまい、その場で意見を持つところまでなかなか辿り着けないが、上下関係に縛られず生徒が意見を言える環境に、積極的である人ほど視野が開けていくのだなと思えた。当たり前のようで、どこかで抑圧することを覚えていた感覚に空気が送り込まれたようだった。

 いわゆる人より遅い挑戦なのだろうが、自分にとってはその時の「今」が行動を起こせる始まりの時期であって、それに加えて家族からのサポートや、もはや当たり前となったインターネットを介したさまざまな技術や情報の助けがあって実行を可能にした面がとても大きい。コロナ禍でイタリアに留まり続けられたのも同様である。

 留学開始当初は全く予期することもできなかった世界的パンデミアが訪れ、ロックダウンにより学校も休校となった。状況もよく飲み込めないまま、先の見えないまま、数ヶ月アパートに篭ることになった。10日に1度ぐらいの頻度で外出はビクビクと怯えながらゴミ捨てとスーパーへの買い物へ行く名目で記入した自己宣誓書を常に携帯した。日本外務省、在イタリア日本国大使館からのメールによる頻繁な情報提供により、日々複雑に変わる日本とイタリア国内の規制をなんとか継続的に目にすることができた。学校はまずは講義科目がオンライン授業になって再開した。実習科目の授業の再開には学年を跨ぐこととなったが、その間にStageを行うことは可能となった。自分の行った研修先ではマスクの着用や対人距離間隔等をきちんと気にしながら作業を行っていた。日本人の感覚からすると緩く感じられることも多いが、学校はその時々で生徒と向き合い、難しい状況下にあって対策を講じてくれていると思った。
 とても個人的な体験だが、コロナ禍で肉親が大きな手術を行うことが決まった。海外から自由な行き来もままならない状況で、日本にいる家族ですら病院での手術の立ち会いや面会もできないため、全てを専門医師や看護師の方々にお任せするしかできることもなく、自分が帰国したところで隔離やら何やらで、余計な迷惑にはなっても何の役に立つでもないと、再開された対面授業を受けながら家族からのメッセージと電話でのやりとりだけで過ごしていた。無事手術も済んでもう1年以上経ったが、手術後取り戻した日常生活もまだまだコロナに脅かされかねない。留学を考える時、こういった家族や自身の健康についての心配が必ず生じることと思う。全てのことが順風な時というのはないかもしれない。パンデミアによって故郷に戻り学業を中断せざるを得なかった人もいる。中断を経て、卒業試験のためにフィレンツェに戻ってきた人もいる。3年以上かけて無事卒業した人もいる。いろいろな困難が重なることもあるが、たとえば順調に進級することが叶わないときでも、目標を諦めるのを早まらないでほしい。学びたい自分の気持ちが高まっている時をどうか手放さないで、大事にしてほしいと思う。
雨の降ったフィレンツェ
雨の降ったフィレンツェは、いつもと違った色をもっている。

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