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ウーゴ・プロカッチ
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美術史家たち(ブランディ、プロカッチ、ウルバーニ)が述べているように、修復の理論によれば、修復作業を有機的に統合することがますます重要視されるようになってきています。だからこそ、わたしは、あらゆる形態の修復は、厳密な計画にのっとって行われなければならないと言いたいのです。そうした計画においては、歴史的・美術的な評価、環境要因、技術的分析などに関するデータが、修復方法に関する最良の選択ができるように、互いに統合されていなければなりません。したがって、修復という行為自体は、もはや外在的な意思を具体的に実行するものではなく、認識と解釈にもとずいた行為であるというのが現代の考えとなっています。したがって、修復の是非や効果を自動的に判定するような確実な判断基準のようなものは存在しません。つまり、どんなケースでも、たとえそれが他のケースと一見似ていたとしても、それ自体が独自のものなのです。
ウーゴ・プロカッチが言うように、「病気というものは存在しない。存在するのは病人のみだ」というわけです。現在、われわれは、50年前に行われた修復作業を、客観的な眼で、あるいは一定の批判意識をもって眺めることができます。しかし、われわれの作業というものもまた、後世の人々によって判断を下されるのだということを忘れてはなりません。われわれとしては、進歩があったと判定されることを願うのみです。しかし、こうした進歩に到達するうえで、現代的な修復において従うべき倫理的原則のひとつは、<復元可能性>です。
つまり、芸術作品に対して行われるすべての作業は、その本質を変えてしまうものであってはなりません。芸術作品に対してどんな修復や付加を行おうとも、それは作品を傷つけることなく除去することができなければならないのです。しかし、芸術作品の構造や外見を永久的に変えてしまうような修復作業も存在しており、その一例としては洗浄作業が挙げられますが、これについてはのちほど述べることにしましょう。さきほど、わたくしは作品の修復の<必要性>について述べましたが、これはきわめて重要なことなのです。われわれはいったい、いつ修復をすべきなのでしょうか? その答えはたくさんの側面を合わせもっていますが、実際問題としては、保存状態が最悪となった作品に対して修復が行われるというのが通常です。しかし、こうしたことのほかにも、芸術作品に修復を行うべきかどうかを決定するうえでのべつの理由が存在します。
たとえば、ひとつの認識行為として、芸術家たちが用いた特定の技法を明らかにするため、及び彼らの<創造>についてのコンセプトを理解するため、修復を行う場合があります。
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