まずはじめに、本日わたくしを迎えてくださった東京のイタリア文化会館のマルケッティ館長にお礼の言葉を述べさせていただきます。
また、わたくしとセローニ教授を東京のランビエンテ美術学院にお招きくださった同校学院長の船山千尋女史に対しても、合わせて感謝の言葉を捧げたいと思います。
さて、わたくしは、フィレンツェのパラッツォ・スピネッリ芸術修復学院-ニッコリーニ宮において校長をいたしております。 わたくしどもの学校は、20年以上にわたって、修復に関するさまざまな分野、すなわち、絵画、古い木工作品、書物、写本、織物、陶器、石碑などの学部がございます。
現在、多くの方面で修復が話題となっており、テレビや新聞・雑誌などでは、ローマのシスティーナ礼拝堂や、フィレンツェのドゥオーモの天井のフレスコ画といった、重要な修復工事の例が取り上げられています。そのために、ともすれば、修復というものが、何世紀にもおよぶ技術の発展を通して磨かれてきた原理ではなく、近年になって生まれた新しい職業であるかのように思われがちです。
しかし、1568年にはすでにジョルジョ・ヴァザーリが、古代彫刻の修復の問題に取り組み、修復家たちに対して、必要に応じてどのように腕や足の部分を再生するかなど、アドヴァイスを与えております。つまり、当時から、ヴァザーリの理論に支えられた文化的なモチベーションがあったわけで、そうした理論は当然、現在では不可欠のものとなっ
ています。さまざまな倫理的原則の確立と、学術的研究、新しい思想の交流、美術史などのたゆみない発展とによって、修復にまつわるさまざまな側面や諸問題は大きくその領域を広げました。そして、こうしたすべての要素があいまって、修復という作業は今日見られるような形となったのです。すなわちそれは、さまざまな文化や思潮のあいだの相互作用と対立を通して、たえざる発展をつづける、ダイナミックな経験にほかならないのです。芸術作品の保存と修復に関する1987年の修復憲章には、「芸術、歴史、そして文化全般における大きな関心を集めるような、あらゆる時代、あらゆる地域におよぶあらゆる作品が修復の対象となる」と定義されています。こうした定義を、何世紀も経てわれわれに伝えられてきたあらゆる形態の芸術作品に敷衍するというのは、<文化財>という考え方、さらには、修復がわれわれの文化の歴史のなかで果たしている、そして今後も果たすであろう基本的役割を慎重に再検討することから得られた成果なのです。過去においてそうであったように、現在でも、修復とは、ただ単に美的センスの表現であるだけではなく、人間が未来への展望のもとに過去を見つめるときにとる行動の表現でもあります。実際、われわれは、修復に対するわれわれの先祖たちの姿勢を研究することによって、かれらの精神性について多くを学びとることができます。そして、同じようにして、われわれの未来の世代は、われわれが修復という分野で行った<行為>を判断することによって、われわれの文化の姿勢を学びとることができるでしょう。この場合、<行為>という言葉はとりわけふさわしいものです。なぜなら、歳月が芸術作品に残すあらゆる足跡のなかでも、修復行為はまちがいなく最も見過ごせないもののひとつであるからです。修復をわれわれの子孫に対する責任として捉え、その結果に自覚をもつこと、そして、われわれに伝えられた文化資産を次の世代に渡すことに自覚をもつことは、<修復憲章>を特徴づける、保存、予防、保護、修復、保全といった基本的要素を支える礎石となるものです。あらゆる修復に先立つ心がまえとして、芸術作品に対する敬意の念をもたねばなりません。そして、どんなにわずかであれ修復を行う際には、そうした心がまえをもつことが重要となりますが、それは、そうした心がまえが芸術作品自体の内容や外見に影響を与え、ひいては、通常、その寿命や、将来その作品を享受できるかどうかにも関わってくるからです。こうした理由から、最も適切な修復方法を選択できるように、可能なかぎりさまざまな手法や見解についての情報を入手することがきわめて重要なのです。こうした情報の入手は、美術史学者、生物学者、化学者、物理学者、修復家たちの研究によって保証されており、かれらは、美術作品の制作にまつわるあらゆる側面を分析することによって、次のような問いに対する答えをわれわれに与えることができるのです。
これはだれが作ったのか? なぜ作ったのか? 用いた素材は? その来歴は? 創造の瞬間というものはまた、たとえ壊滅的な作用がおよばなくとも、すくなくとも時間の作用によって、劣化がはじまる瞬間でもあります。
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